言葉の力

 言葉には、力がある。うまく使えば人の心を動かし、下手に使えば人の心を壊す。たいていの人はまだ不器用で、言葉を使いこなせていないんじゃないだろうか。ちょうどりんごの皮をむき始めた子供のように。

 わたしが生きてきたのはたった20年。でもその間に幾度も言葉の力に翻弄された。自分の言いたいことを伝えたい、意見を受け入れてほしい、それだけのことでも、思い通りにはできなかった。相手を説得して行動を変えさせるということは、とても難しいことだ。わたしの試みは思い通りの結果を産まなかっただけでなく、双方の心を傷つけた。

 去年の末、わたしはその逆の立場、つまり言葉で行動を変えさせられようとする側を経験することとなった。そこでようやく、言葉の力の重みを、感じたのだ。りんごの皮がうまくむけなくたって、たとえ少々指を傷つけたって、甘いりんごを口にすれば痛みは忘れると思っていた。でも思ったよりその刃は鈍くて、歪んだ傷口を残したり、あるいはその傷が膿んで痛み続けることもあるのだと、身をもって学んだのだ。

 「双方の心を傷つけた」だなんて言えるものではなかった。言葉で殴られたら、心は抉られるのだと知った。相手にわたしの言葉が響かなかったのは、わたしが放った言葉の力が弱かったからではない。相手の人格を、主体性を、心を否定する言葉は、強く、深く、刺さる。そんな暴力をふるう人の言いなりに、誰がなりたいだろうか。自分を守るために、これ以上傷つかないために、心を閉ざすほかなかったのだ。

 それから、雨に打たれながら泣くとか、食欲が全く湧かないとか、人間を見るだけでしんどいとか、そういうのは比喩的表現じゃなくて本当に起こりうることだと知った。こればっかりはいくら言葉で説明を尽くしたって伝わるものではない。言葉は経験を超えられるものではない。文字を追ったからってわかったつもりになるのは間違っていると思うようになった。

 結局、言葉は都合の良い魔法ではないということだ。生傷絶やさず泥臭く、使い方を学んでいくしかない。いつか本当に相手の心に届く言葉を贈れるように。皮をむくだけじゃなくて、おいしいアップルパイを作れるように。

 

 

 

ちょっとりんごとか意味わかんない比喩使われてて謎だけど、当時の精神錯乱状態をそのまま表しているということで…原文のまま残しておきます(2020/06/27追記)

冬定を終えて

 昨日は冬定だった。朝早くからの一日仕事だったけれど、とても楽しく、本当に楽しく時間を過ごすことができた。一夜明けて、少し民音との馴れ初め(笑)を振り返りたくなったので、少しお付き合いください。

 わたしは中高で吹奏楽部に所属し、フルートを吹いていた。入りたての頃は楽器で音を出せることだけで楽しかった。少し経つと、わけもわからず延々と基礎練をやらされて、先輩の言うとおりに動いて、そんな部活の時間がちっとも楽しくなくなっていった。自主練をしていない分ほかの部員からだんだん後れを取るようになり、部活の練習時間は苦痛になっていった。なんで続けてたのかって聞かれたら、それは意地と怠惰だとしか答えられないだろう。それでも楽器を吹くのが楽しかったって、皆の前で胸を張って偉そうに言うことなんてできない。

 大学では、もう吹奏楽をやりたいとは思わなかった。でも何か楽器をやりたくて、新歓のチラシに尺八部を見つけたときは、これだと思った。サーオリで尺八を教えてくれた先輩はとても優しくて、すぐに入ろうと決めた。結局長くは続けられなかったが、あのとき仲良くしてくれた友達は今でも大事な親友の一人である。

 民音との出会いは、去年の駒場祭である。(実際には新歓の時期にその演奏を耳にして興味を持ったこともあったが、当時は尺八部に心を決めていた。)民音の演奏を聴きに行ったのは、ただ好きだった人が楽器を演奏しているところをみたいという動機だけだった。しかしそこで、ひとりひとりが楽しみながらノリノリで演奏している光景を目にし、とても大きな衝撃を受けて、民音に心を奪われてしまったのだ。「なんでこんな楽しいことしてるってもっと前から教えてくれなかったの!」と言って好きな人をぺしぺししていたように思う。今から思えばかなり理不尽な言いがかりだ笑

 時が経ち、わたしはすっかり民音の一員となった。あれだけ苦しんでいた吹部時代の経験は、今のわたしを助けてくれている。基礎練は大事だ。楽しんで演奏できることのありがたさも、あの時間がなければこれだけ切実に感じられなかっただろう。それから、尺八部のその先輩は、実は民音の人でもあり、この冬定で一緒に演奏することができた。信じられないくらい幸せなことだ。

 今のわたしは、胸を張って、「民音でこんなに楽しく演奏してるよ」と言える。こんな楽しいことしてるよって妹に教えても、はいはいって流されちゃうけどね笑